みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

私はヨセフです

ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。(創世記45:3)

 

いよいよ、ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かす。

この場面は、創世記の中で、いや旧約聖書全体の中で、もっとも感動的だ。

 

わたしは、1節がとても好きだ。

 

ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「皆を私のところから出しなさい」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。(1)

 

小説技法はまったく知らないが、この書き方は実に心憎いと思う。

3節の決定的なセリフより先に、事実をすっとすべりこませている。

しかも、ヨセフの叫び声の大きさと対照的に、あえて静かに。

 

恐ろしい権力者が、突然自分たちと同じ言葉で「私はヨセフです」と語るのを聞いたとき、兄弟たちはどんな顔をしていただろう。

自分たちは弟を売り飛ばした罰を受けていると、ずっと思っていた。

あれからどこでどうしているのか、この国の片隅で生きているのか、それとも早々に死んでしまったのか、見当もつかなかった。

それが、目の前にいる、自分たちをきつく尋問していたエジプト全土の支配者が、ヨセフだったのだ。

 

ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。(4)

 

半信半疑で、恐る恐る彼らは近づいた。

 

「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。・・・神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。」(4-7)

 

二十年来の苦しみ、憎しみが、一度に溶け去った。

これが神のわざなのだ。

 

彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。(14)

 

二人にしかわからない感情があった。

ベニヤミンもまた、子どもの頃に慕ってついて回った兄を、ずっと想っていたのだ。

 

ヨセフの兄弟たちが来たという知らせが、ファラオの家に伝えられると、ファラオもその家臣たちも喜んだ。(16)

 

ここに、いかにヨセフがこの国で敬愛されていたかが見て取れる。

ファラオは喜んで、何も心配することなく父たちを迎えるよう告げる。

 

こうしてヨセフは兄弟たちを送り出し、彼らが出発するとき、彼らに言った。「道中、言い争いをしないでください。」(24)

 

これはまた、ユーモラスなシーンだ。

かつて自分を売り飛ばした兄たちに、冗談めかして言っている。

「いやぁ、それは言わないでくれ」と、兄たちは頭をかいただろう。

 

彼らは父に告げた。「ヨセフはまだ生きています。しかも、エジプト全土を支配しているのは彼です。」父は茫然としていた。彼らのことばが信じられなかったからである。(26)

 

いまわたしたちが読んでも、こんなことがあるだろうかというような話だ。

当事者なら、なおさらだ。

 

神がなさることは、わたしたちの理解をはるかに超えて大きい。

 

ヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見ると、父ヤコブは元気づいた。(27)

 

 

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