みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

死は彼らから逃げて行く

その人たちを殺すことは許されなかったが、五か月間苦しめることは許された。彼らの苦痛は、サソリが人を刺したときの苦痛のようだった。その期間、人々は死を探し求めるが、決して見出すことはない。死ぬことを切に願うが、死は彼らから逃げて行く。(黙示録9:5-6)

 

9章では、第五と第六のラッパが吹かれる。

これら第五、第六、第七のラッパがそれぞれ「第一、第二、第三のわざわい」と呼ばれている。

七つのラッパのうちの四番目まではそう呼ばれず、五番目以降が「わざわい」と呼ばれるのは不思議な気もするが、直前の8章の最後を見ると意味がわかる。

 

また私は見た。そして、一羽の鷲が中天を飛びながら、大声でこう言うのを聞いた。「わざわいだ、わざわいだ、わざわいが来る。地上に住む者たちに。三人の御使いが吹こうとしている残りのラッパの音によって。」(黙示録8:13)

 

ここで「わざわい」という言葉が三度くり返されている。

それは、「地上に住む者たちに」対するものだ。

第一から第四のラッパでは、その艱難は自然界の異常によるものだった。

しかし、第五のラッパからは、直接人間に害が及ぼされる。

それが「わざわい」の意味だ。

 

その煙の中からいなごが地上に出て来た。それらには、地のサソリが持っているような力が与えられた。そして彼らは、地の草やどんな青草、どんな木にも害を加えてはならないが、額に神の印を持たない人たちには加えてよい、と言い渡された。(3-4)

 

この「いなご」は、「底知れぬ所に通じる穴」(1・2)、すなわちサタンの居場所から出てくる。

しかし、それらであっても、神が許された範囲の中でしか動けない。

 

「額に神の印を持たない人たち」に加えられる害は、五か月間の苦痛をもたらす。

しかも、あまりの苦しさに人々は死を探し求めるが、死を見出すことができないという。

 

死ぬことを切に願うが、死は彼らから逃げて行く。(6)

 

黙示録には、このような背すじも凍るような表現がある。

死が逃げて行くとはどういう状況なのか、想像もつかない。

エスさまは、次のように言われた。

 

「そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません」(マタイ10:29)

 

神を信じる信じないにかかわらず、すべての人のいのちは父なる神の御手の中にある。

死を願っても死が逃げて行った「第一のわざわい(第五のラッパ)」のあとに、「第二のわざわい(第六のラッパ)」が続く。

そこではもはや、死は逃げてくれない。

 

これら三つの災害、すなわち、彼らの口から出る火と煙と硫黄によって、人間の三分の一が殺された。(18)

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村