みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

あなたのために、私たちは休みなく殺され

あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。(詩篇44:22)

 

44篇は、イスラエルの先祖に対する主の恵みを想起するところから始まる。

 

神よ、私たちはこの耳で聞きました。先祖たちが語ってくれました。あなたが彼らの時代、昔になさったみわざを。・・・自分の剣によって、彼らは地を得たのではなく、自分の腕が、彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの御腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。(1・3)

 

わたしたちが主にある喜びと平安を知ることができたのも、まったく同様だ。

それは主がわたしたちを愛されたがゆえに、主の御手によって与えられたものだ。

 

パウロは、次のように書いた。

 

いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、もらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(1コリント4:7)

 

そもそも、自分自身という存在そのものが“もらったもの”なのだ。

それを忘れて、自らを誇ることなどできない。

 

私の弓に、私は頼りません。私の剣も、私を救いません。・・・神にあって、私たちはいつも誇ります。あなたの御名を、とこしえにほめたたえます。(6・8)

 

すばらしい信仰告白だ。

ところが、次節から調子が急転回する。

 

それなのに、あなたは私たちを退け、卑しめられました。あなたはもはや、私たちの軍勢とともに出陣なさいません。あなたは私たちを敵から退かせ、私たちを憎む者どもは思うままに略奪しました。・・・あなたは私たちを隣人のそしりの的とし、周りの者の嘲りとし、笑いぐさとされます。(9-10・13-14)

 

なんということだろう。

主を信頼し、へりくだり、主をほめたたえていても、敵に踏みにじられる目に遭っている。

それでも、詩人は主を信頼し続ける。

 

これらすべてが私たちを襲いました。しかし、私たちはあなたを忘れず、あなたの契約を無にしませんでした。(17)

 

このような信仰を、はたして持てるだろうか。

わたしには、とてもできそうもない。

 

冒頭にあげた22節では、「私たちは休みなく(直訳;一日中)殺され」ていると、悲痛な叫びをあげている。

この節をパウロは、『ローマ人への手紙』で引用した。

まさにパウロの経験こそ、この詩そのものだったのだ。

 

だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」(ローマ8:35-36)

 

詩人は主に向かって叫んだ。

 

起きてください。主よ、なぜ眠っておられるのですか。目を覚ましてください。いつまでも拒まないでください。(23)

 

パウロも、このような心の叫びを、何度となく経験したことだろう。

しかし彼は、次のように証言した。

信仰の先達に敬服する思いだ。

 

しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。(ローマ8:37)

 

 

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どうか、あなたの光とまことを送り

どうか、あなたの光とまことを送り、それらが私を導くようにしてください。あなたの聖なる山、あなたの住まいへと、それらが私を連れて行きますように。(詩篇43:3)

 

43篇は、42篇の続きになっている。

最後の5節は、42篇11節とまったく同じだ。

 

わがたましいよ、なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。(5)

 

「待ち望む」という言葉は、英語の聖書では、trust in、hope in、wait for、などと訳されている。

「待つ」ことは、信頼して、期待して、待つことにほかならない。

 

しかし、それがあまりに長引くとき、わたしたちは疲弊してくる。

箴言にも、

 

期待が長引くと、心は病む。(箴言13:12)

 

と、あるとおりだ。

 

詩人も、そのような疲れを覚えながら、神に訴えた。

 

神よ、私のためにさばいてください。私の訴えを取り上げ、不敬虔な民の言い分を退けてください。欺きと不正の人から、私を助け出してください。(1)

 

私の祈りは聞かれず、悪者たちは悠々と生き、かつ私を攻撃する。

 

なぜ、あなたは私を退けられたのですか。なぜ、私は敵の虐げに、嘆いて歩き回るのですか。(2)

 

信仰とは「なぜ」と言わないことだ、と聞いたことがある。

たしかにそれは、信仰の神髄だろう。

とはいえ、生身の人間として、「なぜ」と問いたくなるのも事実だ。

詩人のすぐれたところは、それを主に向けて告げたことだと思う。

 

どうか、あなたの光とまことを送り、それらが私を導くようにしてください。あなたの聖なる山、あなたの住まいへと、それらが私を連れて行きますように。(3)

 

なんとすばらしい祈りだろう。

主の光とまこと、慈愛に満ち、きよく麗しい、主の光とまこと。

それらに導かれたい、主の山、住まいへと導かれたい、と祈っている。

 

こうして、私は神の祭壇に、私の最も喜びとする神のみもとに行き、竪琴に合わせて、あなたをほめたたえます。神よ、私の神よ。(4)

 

主の祭壇、主のみもとで主をほめたたえたいのです、わが主よ。

苦しみながらもこのように祈る聖徒を見て、主が放っておかれることがあるだろうか。

 

どんな状況にあろうとも、わたしたちもまた、これらの祈りをわが祈りとして、御前にささげようではないか。

 

いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。(ルカ18:1)

 

 

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わがたましいよ、なぜ、おまえは

わがたましいよ、なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。(詩篇42:11)

 

42篇は、非常に美しい、よく知られる表現ではじまる。

 

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。(1)

 

ここで興味深いのは、「私のたましいは」慕いあえぐと言っているのであって、「私は」ではないことだ。

詩篇には「わがたましいよ」とか「私のたましいは」という表現が多いので、なんとなく読み過ごしていたが、よく考えたら不思議な言葉だ。

「わがたましい」「私のたましい」は、この42篇に6度も出てくる。

 

このとき詩人は、苦難の中にあった。

 

昼も夜も、私の涙が、私の食べ物でした。(3)

 

あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波はみな、私の上を越えて行きました。(7)

 

そこに向けて、敵対する者たちから侮蔑の声が浴びせられる。

 

「おまえの神はどこにいるのか」と人が絶えず私に言う間。(3)

 

私に敵対する者たちは、私の骨を砕くほどに、私をそしり、絶えず私に言っています。「おまえの神はどこにいるのか」と。(10)

 

彼自身も、神への信仰が激しく揺さぶられた。

 

私は、わが巌なる神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ、私は敵の虐げに、嘆いて歩き回るのですか。」(9)

 

神を信頼して待ち続けても、事態は何も変わらない。

神は忘れておられるのではないか。

自分の祈りは聞かれていないのではないか。

 

そんな思いを打ち消すかのように、彼は自らを、いや自らのたましいを叱咤する。

 

わがたましいよ、なぜ、おまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。(5)

 

人は励まされるよりも、励ますことで元気になると聞く。

詩人は、「わがたましいよ」と擬人化して語りかけることで、力を新たにしたのではないか。

「私」が大波に飲み込まれるだけなら、自暴自棄になりかねない。

しかし、「私」が「わがたましいよ」しっかりするのだ、と叱咤することで、一歩距離ができ、冷静さを取り戻す。

 

「わがたましい」は、主を愛し、喜び、賛美し、主の道をまっすぐに歩みたいはずではないか。

大波に飲まれてわけがわからなくなりそうなときこそ、このことばを口にしよう。

 

わがたましいよ、なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。(詩篇42:11)

 

 

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弱っている者に心を配る人

幸いなことよ、弱っている者に心を配る人は。わざわいの日に、主はその人を助け出される。(詩篇41:1)

 

「おまえは弱っている者に心を配っているか。自分の好むことばかり追い求めているのではないか」

いきなり、そう問われた気がした。

 

ダビデは病に伏したとき、訪ねてくる人たちの姿に傷ついた。

 

私の敵は、私の悪口を言います。「いつ彼は死に、その名は消え去るのだろうか。」人が見舞いに来ても、その人は嘘を言い、心のうちでは悪意を蓄え、外に出てはそれを言いふらします。(5-6)

 

見舞い人は、面と向かっては「お大事に」とか「早く治りますように」などと言うが、外では「あいつも終わりだな」と毒づいた。

 

私を憎む者はみな、私についてともにささやき、私に対して悪を企みます。「邪悪なものが、彼に取りついている。彼が床についたからにはもう二度と起き上がれまい。」私が信頼した親しい友が、私のパンを食べている者までが、私に向かって、かかとを上げます。(8-9)

 

食卓をともにするほど親しい者たちまで、足蹴にするような態度を取る。

このような状況は、ほんとうにつらいに違いない。

 

さて、冒頭に戻る。

わたしは、「弱っている者に心を配る人」だろうか。

いや、むしろ、上にあるような“冷たい友”に近いのではないかと思う。

 

(まあ、自業自得だよな)

(身から出た錆だ、俺は知らないよ)

 

直接言わないまでも、心中、このような言葉を吐いているのだ。

もしかすると、その人は弱められて、悔い改める備えがあるかもしれないのに。

 

私は申し上げます。「主よ、あわれんでください。私のたましいを癒やしてください。私はあなたの前に罪ある者ですから。」(4)

 

祭司やレビ人は、強盗に襲われて倒れた人を見て見ぬふりをした。

しかしサマリヤ人は、その人を介抱し、宿代まで負担した。

 

「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」(ルカ10:36)

 

ダビデは、こう祈っている。

 

私の誠実さゆえに、私を強く支えてください。(12)

 

「弱っている者に心を配る」ことを疎かにしていたら、このような祈りもできない。

この詩の真意からは少しそれたかもしれないが、あらためて上記のようなことを考えさせられた。

 

あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。(ヤコブ2:13)

 

 

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あなたの救いを言い表します

私は、あなたの義を心の中におおい隠さず、あなたの真実とあなたの救いを言い表します。私は、あなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しません。(詩篇40:10)

初代教会の兄弟たちは、イエスが約束された救い主であることを、聖書(旧約聖書)の中に熱心に調べた。

そして、詩篇40篇が目に留まった。

 

あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物を、あなたは、お求めになりませんでした。そのとき、私は申し上げました。「今、私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。わが神よ、私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。」(6-8)

 

へブル書の著者は、この箇所を引用した。

 

雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物を、あなたは、お喜びにはなりませんでした。そのとき、わたしは申しました。『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。』」・・・このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。(へブル10:4-7・10)

 

ダビデの言葉を、へブル書ではキリストによるものとしている。

このような読み方ができるのも、旧約聖書を読むおもしろさだ。

 

このとおり、40篇は重要な“メシア預言”だ。

したがって、ここに語られている「救い」は、キリストによる「救い」でもあるといえる。

 

私は切に、主を待ち望んだ。主は私に耳を傾け、助けを求める叫びを聞いてくださった。滅びの穴から、泥沼から、主は私を引き上げてくださった。私の足を巌に立たせ、私の歩みを確かにされた。(1-2)

 

死の穴から、罪の泥沼から、引き上げてくださるのは主だけだ。

 

数えきれないわざわいが私を取り囲んでいるのです。私の咎が襲いかかり、私は何も見ることができません。それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。(12)

 

罪からの救いを自分の努力によって達成しようとするのは、洪水を素手で押し戻そうとするようなもので、徒労に終わる。

必要なのは、次の態度だ。

 

主よ、みこころによって私を救い出してください。主よ、急いで私を助けてください。(13)

 

ダビデは、「急いで」と祈った。

敵の攻撃、罪の誘惑が来たときに、彼自身が「急いで」祈ったということではないだろうか。

 

私は苦しむ者、貧しい者です。主が私を顧みてくださいますように。あなたは私の助け、私を救い出す方。わが神よ、遅れないでください。(17)

 

この言葉は、慰めだ。

救いの喜びを賛美する者ではあるが、生身の人間として、「苦しむ者、貧しい者」であることに変わりはない。

だからこそ、「私の助け」である主を必要とする。

急いで、主の御名を呼び求めよう。

 

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:16)

 

 

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あなたとともにいる旅人

主よ、私の祈りを聞いてください。助けを求める叫びに耳を傾けてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人、すべての先祖のように寄留の者なのです。(詩篇39:12)

 

39篇は、38篇の続きのような詩篇だ。

38篇では、敵の嘲りに対して「聞こえない人のように」(詩篇38:13)黙して抗さず、という態度を取った。

39篇も、こう始まる。

 

私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないように。口に口輪をはめておこう。悪しき者が私の前にいる間は。私はひたすら黙っていた。良いことにさえ沈黙した。そのため私の痛みは激しくなった。(1-2)

 

ダビデは「悪しき者」の前で、口輪をはめたように黙った。

間違っていない、正しい「良いこと」でさえも口から発しなかった。

 

これはふつう、できることではない。

相手の言い分が理不尽であれば、なおさらだ。

 

あのヨブでさえ、友人たちから非を責められたとき、自らの潔白を主張して言い返した。

しかし、その結果、彼は自分を義とする過ちに陥ったのだ。

「良いこと」ですら、言い返すなら、「舌で罪を犯す」ことになりうると、ダビデは知っていた。

 

とはいえダビデも、黙っていることに耐えられなくなる。

 

心は私のうちで熱くなり、うめきとともに、火が燃え上がった。そこで私は自分の舌で言った。(3)

 

驚くのは、このあとだ。

耐えきれずに発した彼の言葉は、敵に対してではなかったのだ。

 

主よ、お知らせください。(4)

 

ダビデは相手ではなく、主に対して口を開いた。

ダビデがことのほか主に愛され祝された秘訣が、ここにあると思う。

 

彼は何を祈ったか。

 

私の終わり、私の齢がどれだけなのか。私がいかにはかないかを知ることができるように。ご覧ください。あなたは、私の日数を手幅ほどにされました。あなたの御前では、私の一生はないも同然です。人はみなしっかり立ってはいても、実に空しいかぎりです。(4-5)

 

ヨブのように自分がいかに正しいかを訴えるのではなく、「私がいかにはかないかを知ることができるように」と願っている。

なんという謙遜さだろう。

 

そして、自分の人生の日数も主の「手幅ほど」に過ぎない、それほど自分は空しい存在だと言う。

 

今日、“人生百年時代”といわれる。

しかし、百年だろうと90年だろうと、わたしたちの地上人生は主の「手幅ほど」だ。

あっという間に過ぎ去り、戻ってはこない。

それほど空しく、無力な者が、自分を義とし、何かを知っているかのように傲慢に語るのは、愚かでしかない。

そんな愚かさを、日々おかしているのが、わたしたち人間ではなかろうか。

 

主よ、今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。(7)

 

主から離れたなら、いっさいは空しい。

どんなに栄えようと、蓄えようと、根本的に空しい。

主につながるときだけ、わたしたちは空しさから解放される。

 

私はあなたとともにいる旅人、すべての先祖のように寄留の者なのです。(12)

 

“人生は旅である”とはよくいわれることだが、主を知る者の旅は孤独な旅ではない。

「あなたとともにいる旅人」だからだ。

主から離れて空しい旅をするのか、主とともに実りある旅をするのか、この違いはとてつもなく大きい。

 

聖書は、人生は空しいものだ、それ以上を求めず、それを悟れ、とは言っていない。

そうではなく、その空しさは神から離れていること、すなわち罪の結果であり、キリストを通して神のもとに立ち返るとき、罪赦されて空しさから解放される、と教えている。

 

世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。(1ヨハネ2:17)

 

 

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私の咎が頭を越えるほどになり

私の咎が頭を越えるほどになり、重荷となって、担いきれません。(詩篇38:4)

 

38篇でダビデは、“三重の苦痛”について告白している。

  1. 罪の苦痛
  2. 肉体の苦痛
  3. 周囲からの蔑みの苦痛

 

1.罪の苦痛

 

主よ、あなたの激しい怒りで私を責めないでください。あなたの大いなる憤りで私を懲らしめないでください。・・・あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のゆえ私の骨には健全なところがありません。私の咎が頭を越えるほどになり、重荷となって、担いきれません。(1・3-4)

 

ダビデの名は、旧約聖書の中でもひときわ輝く名であるが、彼は完全無欠な人物だったわけではない。

そうではなく、神の前で自分の罪を深く自覚した人だった。

「自分を低くする者は高くされる」というのが聖書の大原則だが、その意味ではダビデはだれよりも低くなっていた人だったといえる。

 

2.体の苦痛

 

私の傷は、悪臭を放って腐り果てました。それは私の愚かさのためです。私は身をかがめ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩き回ります。私の腰は火傷でおおい尽くされ、私の肉には、どこにも完全なところがありません。(5-7)

 

何らかの病だったのか、それとも戦傷が悪化したのか、ともかくダビデは肉体的な苦痛の中にあった。

それを、「私の罪のゆえ」(3)、「私の愚かさのため」(5)に、「あなたの矢」(2)として神から与えられたものと受け止めている。

 

3.周囲からの蔑みの苦痛

 

愛する者や私の友も、私の病を避けて立ち、近親の者でさえ、遠く離れて立っています。私のいのちを求める者は罠を仕掛け、私のわざわいを願い求める者は私の破滅を告げ、絶えず、欺くことを語っています。(11-12)

 

近親者たちも近寄ろうとせず、敵は絶えず「おまえは終わった」と侮蔑の言葉を浴びせてくる。

これに対して、ダビデはどう出たか。

 

しかし私は聞きません。聞こえない人のように。口を開きません。話せない人のように。まるで私は、耳が聞こえず、口で争わない人のようです。まことに主よ、あなたを私は待ち望んでいます。(13-15)

 

主が正しくさばいてくださることを信じて、黙して抗しなかった。

 

こう見てくると、これら三つの苦痛は、すべてその後、主イエスが味わったものと同じであることに気づく。

エスさまは、自分の罪ではなく、全人類の罪を負われた。

エスさまは、激しい肉体の苦しみを味わわれた。

エスさまは、人々からののしられ、嘲られ、十字架につけられた。

 

その意味では、この詩篇もまたメシア預言のひとつと言えよう。

 

主よ、私を見捨てないでください。わが神よ、私から遠く離れないでください。急いで私を助けてください。主よ、私の救いよ。(21-22)

 

 

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