多くの人が生かされるため
「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」(創世記50:20)
いよいよ、創世記も今回で終わりとなる。
何度も読んできた創世記だが、このたびほど大きな感動と励ましを受けたことはなかった。
やはり、このようにブログでアウトプットすることが良いのだろう。
それなりに調べもするし、もちろん祈りもする。
読みながら、まるで主が、その場に連れて行ってくれているかのような感覚だった。
特に、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの信仰には、ほんとうに学ばされる。
彼らが主を見上げたその眼差しをもって、わたしも主を仰ぎ見て進みたい、そんな思いを新しくしている。
ヨセフはヤコブの遺言にしたがって、亡き骸を先祖の墓に葬るため、カナンの地に向かった。
それで、ヨセフは父を葬るために上って行った。彼とともに、ファラオのすべての家臣たち、ファラオの家の長老たち、エジプトの国のすべての長老たち、ヨセフの家族全員、彼の兄弟たちとその一族が上って行った。・・・また、戦車と騎兵も彼とともに上って行ったので、その一団は非常に大きなものであった。彼らは、・・・たいへん立派で荘厳な哀悼の式を行った。ヨセフは父のため七日間、葬儀を行った。(7-10)
エジプト中が七十日間喪に服したあとに、これだけの重鎮たちをしたがえて、大きな葬儀が行われた。
国葬級の扱いだ。
ヤコブ及びヨセフを、エジプトの王と国民がいかに敬愛していたかがわかる。
葬儀も終わり、エジプトに戻ってひと息ついた頃、兄弟たちにある不安が広がった。
ヨセフの兄弟たちは、自分たちの父が死んだのを見たとき、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪に対して、仕返しをするかもしれない」と言った。(15)
そこで兄弟たちはヨセフに、父ヤコブが「赦してやれと言っていた」と、本当かどうかわからないことを伝えて、赦しを請うた。
兄弟たちとの劇的な再会から17年経っても、まだ、彼らの心には一抹の不安が残っていたのだ。
ヨセフは彼らのことばを聞いて泣いた。(17)
赦しているのに、赦されていないと思われるのは、辛いことだ。
それが愛する者たちなら、なおのこと。
ヨセフは言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりになることができるでしょうか。あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたも、あなたがたの子どもたちも養いましょう。」このように、ヨセフは彼らを安心させ、優しく語りかけた。(19-21)
ヨセフは兄弟たちより早く亡くなるが、晩年のヨセフは幸福であったことが、つぎのみことばからも伺える。
ヨセフはエフライムの子孫を三代まで見た。マナセの子マキルの子どもたちも生まれて、ヨセフの膝に抱かれた。(23)
正しい人が、人々の罪のゆえに犠牲となり、それが多くの人の救いにつながった。
ヨセフはまさに、キリストのひな型でもある。
キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりとなられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。(1ペテロ3:18)