自分たちの妹が汚された
彼らはハモルとその子シェケムを剣の刃で殺し、シェケムの家からディナを連れ出した。ヤコブの息子たちは、刺し殺された者のところに来て、その町を略奪した。自分たちの妹が汚されたからである。(創世記34:26-27)
34章は“ディナ事件”の顛末である。
レアがヤコブに産んだ娘ディナは、その土地の娘たちを訪ねようと出かけて行った。すると、その土地の族長であるヒビ人ハモルの子シェケムが彼女を見て、これを捕らえ、これと寝て辱めた。(1-2)
新しい友だちが欲しかったのか、ディナは無邪気に町に出かけ、シェケムという男に手籠めにされる。
ただシェケムも根っからの悪党ではなかったようで、ディナを愛して優しく接し(3)、周りの者から敬われてもいた(19)。
シェケムと父ハモルが、正式にヤコブに娘との結婚を申し込む。
妹を汚されて怒りに燃える兄たちは、ここで条件として「割礼」を持ち出す。
「ただし、次の条件でなら同意しましょう。もし、あなたがたの男たちがみな、割礼を受けて、私たちと同じようになるなら、私たちの娘たちをあなたがたに嫁がせ、あなたがたの娘たちを妻に迎えましょう。そうして私たちはともに住み、一つの民となりましょう。」(15-16)
町の男たちがすなおに従い、割礼の痛みに苦しんでいるときに、兄シメオンとレビが町を襲った。
三日目になって、彼らの傷が痛んでいるとき、ヤコブの二人の息子、ディナの兄シメオンとレビが、それぞれ剣を取って難なくその町を襲い、すべての男たちを殺した。(25)
こうして凄惨な事件となってしまった。
シェケムの行為も責められるべきだが、兄たちのそれも大きな罪だ。
しかも「割礼」という、神との契約の象徴を悪用した。
「割礼」は、神の民として祝福を約束されたしるしであって、何よりもまず神に対する感謝を思い起こすべきものだ。
それがアブラハムから四代目の彼らにおいては、人を騙し、他の民を見下す手段となってしまったことが見て取れる。
つまり「割礼」が、対“神”ではなく、対“人”に変わり、本来の意味を失っているのだ。
これは新約時代の割礼論争にまで続く、「割礼」における大きな誤りのもとである。
ヤコブは彼らのしわざを見て、嘆いた。
「あなたがたは私に困ったことをして、私をこの地の住民カナン人とペリジ人に憎まれるようにしてしまった。」(30)
この事件は、ユダヤ人が他の民族から憎まれる先駆けにもなったのだ。
そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26:52)