ただ捕らえようとして追求しているのです
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。(ピリピ3:12)
パウロは、「捕らえようとして追求している」と言った。
2章では、次のように書いている。
みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。(ピリピ2:21)
人は、究極的には、自分を求めるか、イエス・キリストを求めるか、のどちらかだ。
自分を求める生き方は「キリストの十字架の敵」であると、パウロは言う。
というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。(18-19)
キリストの十字架の敵は、「滅び」に終わる。
その神は「欲望」、すなわち自分の栄光であり、どんなに栄えてもまことの神の御前に「恥ずべき」ものでしかない。
求めているのは、「地上のことだけ」だ。
実に空しく、悲劇的だ。
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。(20)
キリストを求める者の目標は、「天」にある。
それは永遠の御国であり、空しく終わらない。
たしかな手応えがあり、意味がある。
今年、わたしは何を追い求め、どこに向かって進もうとしているだろうか。
地上ではなく、天に目を向けよう。
兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。(13-14)
ご自分を空しくして
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。(ピリピ2:6-7)
2章のはじめにパウロは、皆が一つ心で愛し合うよう奨励し、その模範としてキリストを語った。
6節は、注釈どおりに直訳すると、
神と等しくあることを固執すべきこととは考えず、
となる。
神であるお方が神と等しくあることに固執されなかった、というのだ。
驚くべきことに違いないが、事があまりに大き過ぎて、とても理解はできない。
ただ、とてつもなくすごいことであるのは間違いない。
何かに固執することがさまざまな苦悩の原因であるとは、仏教でも言っていることだ。
ただ、仏教の場合は、すべてが「無常」であることを悟れと説く。
聖書は、神であるお方が神であることに固執せず、しもべとなり、人間となられた、ということを事実として告げている。
この事実を受けて、あなたはどうかと。
しかも、人間となられただけで終わらない。
人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。(7-8)
全人類、すなわちすべての罪人の身代わりとして処刑されるために、極刑の中でももっとも恥辱と苦痛に満ちた「十字架の死」にまで従われた、というのだ。
そこには、偉大なる目的があった。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(9-11)
この世界は、無目的な無常の世界ではない。
意味があり、目的がある。
だからこそイエスさまは、「神と等しくあることを固執すべきこととは考えず」、「十字架の死」にまで従われた。
極限までへりくだられた方に、感謝と賛美を献げようではないか。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。(ヘブル12:2)
生きることはキリスト
私にとっては生きることはキリスト、死ぬことは益です。(ピリピ1:21)
きょうから、『ピリピ人への手紙』だ。
また例によって、全体を"ザッと読み"してみる。
他の手紙同様、曲がった教えに対する警告もあるが、ピリピ書ではパウロ自身の信仰告白がより強く打ち出されていると感じる。
冒頭のみことばが、その典型だ。
私にとっては生きることはキリスト、(21)
なんと迷いのない、気持ちの良い言葉であろうか。
「あなたにとって生きることとは何ですか?」と聞かれたら、どう答えるだろう。
ある人は、旅と答えるかもしれない。
またある人は勉強、ある人は快楽、ある人はゲーム、ある人はマラソン、ある人は暇つぶし等々、挙げればキリがない。(これらはみな、ネットで検索して出てきたものだ)
パウロは、迷いなく「生きることはキリスト」と言い切った。
しかも、「死ぬことは益」だという。
私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。(23)
パウロのこの告白が、その後、どれほど多くの死と直面する者たちを力づけたことだろう。
For to me, to live is Christ and to die is gain.(21・英訳)
「あなたにとって生きることとは何ですか?」
この問いに、パウロにならって、恥じることなくはっきりと答えようではないか。
「私にとっては、生きることはキリストです」と。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。(ピリピ3:8)
子どもたちを怒らせてはいけません
明けましておめでとうございます。
昨夏から始めたこのブログ、今年も一日一章ずつ、聖書を読んで教えられたこと、考えさせられたことを綴っていけたらと思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。(エペソ6:4)
5章の後半でパウロは、夫婦のあり方について、キリストと教会になぞらえて論じた。
それに続き6章では、親子のあり方をさとしている。
子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。(1-3)
「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」(出エジプト20:12)
以前の新改訳では、3節は「地上で長生きする」と訳されていた。
聖書とはつくづく面白いと思うのだが、「父と母を敬え」、これが聖書の示す健康法であり長寿の秘訣だ。
現代は90歳や100歳を超えて元気な人も少なくないが、親に対してどうであったか、調査してもらいたいものだ。
きっと興味深い結果になるだろう。
そして冒頭にあげた4節が、聖書の「子育て論」だ。
これも、実に独特である。
自分の子どもたちを怒らせてはいけません。(4)
いわゆる子育て本はあまたあるが、「子どもを怒らせてはいけない」とは聞いたことがない。
しかし、聖書がそう言っているからには、ここは重要な子育ての"キモ"に違いない。
子どもが親に対して怒るのは、どんな場合だろうか?
親が子どもを、一人の人格として尊重しないときではないか。
子どもに対して聞く耳を持たず、頭ごなしに押さえつけ、「子どもなのだから親に従え」と言わんばかりの態度をとるとき、子どもは怒るだろう。
クリスチャンの親が、陥りがちなところだ。
と、自らを反省しながら書いているのだが。
親からみれば、子どもはいつまでもよちよち歩きの頃のままだ。
ところが子ども自身は、驚くほどのスピードで身心共に成長している。
親にとっての5年間と、子どもにとってのそれとでは、密度が天地ほど違う。
そのことを、いま一度胸に刻もう。
「親の心子知らず」というが、「子の心親知らず」でもあるのだ。
あと、このみことばは、「父たちよ」と語られていることに注意したい。
子どもが父に怒る大きな要素の一つは、父が母をないがしろにするときだろう。
自分もそうであったが、子どもにとっては、まず何よりも「お母さん」なのだ。
父の自分勝手で傲慢な態度は、子どもを怒らせる。
ああ、悔い改めが必要だ。
わが子よ。聞け。私の言うことを受け入れよ。そうすれば、あなたのいのちの年月は増す。私は知恵の道をあなたに教え、まっすぐな道筋にあなたを導いた。あなたが歩むとき、その歩みは妨げられず、走っても、つまずくことはない。訓戒を握りしめて、手放すな。それを保て。それはあなたのいのちだから。(箴言4:10-13)
神に倣う者
ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。(エペソ5:1)
「神に倣う者となれ」と、パウロは書いた。
わたしたちは、倣うべき神をどのような方と捉えているだろうか。
わたしたちの信仰のあり方は、その現れといえる。
また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。(2)
神は愛であり、ご自身を惜しみなく与えるお方だ。
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。(25)
わたしたちは、キリストをどのような方と捉えているだろうか。
夫の妻に対するあり方は、その現れだ。
キリストの愛に感謝しながら、妻を自分に仕えるしもべのように考えているなら、その信仰は矛盾していると言わざるを得ない。
キリストが「教会のためにご自分を献げられたように」愛せよ、とある。
同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。(28-29)
「そうは言っても、うちの妻ときたらですね・・・」などと、キリストが言われるだろうか?
もしそうなら、わたしたちはとうの昔に捨てられただろう。
さて、妻のみなさんは、ここで喝采しないでいただきたい。
間違っても、この記事をプリントアウトしてテーブルに置くようなことはしないで欲しい。
なぜなら、こうあるのだから。
妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。(22-23)
もう一度、はじめの聖句をみよう。
ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。(エペソ5:1)
ただ神に倣えというのではなく、「愛されている子どもらしく」と言われている。
神の愛を素直に受けとめてはじめて、「神に倣う者」となることができる。
神の愛の証拠は、十字架上のキリストだ。
この事実の前に、静まろう。
「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(31-32)
召しにふさわしく歩みなさい
さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。(エペソ4:1)
3章までキリストの救いの奥義、神の永遠のご計画について語られたあと、4章から日常的な歩みにおける指針が語られる。
聖書の順序はいつもそうで、このエペソ書も例外ではない。
素晴らしい救いが成し遂げられた、祝福はすでにあふれるほどに注がれている、だから元気を出しなさい、それにふさわしく聖く歩みなさい、ということだ。
召しにふさわしく歩むその力は、「召し」の素晴らしさを知るほど強くなる。
したがって大切なことは、信仰によってまず聞き、受けることであって、決して人間の行いや人間発の努力ではない。
パウロは、冒頭の言葉のあとにこう続けた。
謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。(2-3)
ここから教会の一致について述べていくのだが、その最初に「謙遜」がきている。
謙遜、柔和、寛容、愛、それなしに平和も一致もない。
ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。(17-19)
「厳かに勧めます」との言葉を、しっかりと受けとめよう。
不品行の根っこには、むなしさ、無知、頑なさ、神のいのちとの断絶がある。
彼らは、あえて神を自分の心から投げ捨て、神を恐れることにおいて「無感覚」になっている。
しかし主を信じる者たちは、主の恵みによって、むなしさからも、無知からも、頑なさからも解放され、神のいのちとの生ける交わりを回復した。
だから、まったく新しく歩むことができる。
そこに信仰によって立ち、召しにふさわしく歩もう。
その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。(22-24)
永遠のご計画
これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるためであり、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。(エペソ3:10-11)
こういうわけで、あなたがた異邦人のために、私パウロはキリスト・イエスの囚人となっています。(1)
この手紙はローマの獄中で書かれたので、文字どおり彼は囚人であったのだが、「キリストによって捉えられた者」という意味も同時に込めているのだろう。
監禁された日々の中で、パウロの霊的洞察はより深くなり、ますます教会のために祈る者となった。
3章を読むと、そのことに気づかされる。
前半(1~13節)では、「キリストの奥義」(4)を啓示された者としての、自らの使命について語っている。
後半(14~21節)は、教会のための祈りの言葉だ。
パウロは、「キリストの奥義」をこう説いた。
それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。(6)
「同じからだ」とはキリストのからだ、すなわち「教会」のことと言ってよいのだろう。
冒頭に挙げた10節では、その「教会」を通して神の知恵が知らされるとあり、「永遠のご計画によるもの」だと言っている。
パウロは監禁された身でありながら、その「内なる人」(16)は自由であった。
「永遠のご計画」の中で、自分を捉えていたのだ。
これは、パウロのみならず、聖書をとおしてそれを知らされているわたしたちキリスト者も、あずかることができる自由だ。
どんな状況にあっても、自分という存在が「永遠のご計画」の中で意味ある存在なのだと確信できる。
わたしたちは、ホワイトアウトの雪山を手探りで進むような者ではない。
たとえ視界はさえぎられても、手には地図とコンパスがあり、心に神の御霊が宿っておられる。
そしてパウロは、教会のために祈った。
- 内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように(16)
- 心のうちにキリストを住まわせてくださいますように(17)
- 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように(19)
- 神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように(19)
これらの祈りを、自分自身と、キリストのからだなる教会のために、献げよう。
そのためにも、キリスト・イエスの囚人として、一人静まる時を持とう。
どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会のおいて、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。(20-21)