みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

弟子たちの足を洗って

(イエスは)それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。(ヨハネ13:5)

 

健康に恵まれている人であれば、いまの日本において、だれかに足を洗ってもらうことはほとんどないだろう。

わたしの前にひざまずき、わたしの足をその手に取り、水を注いで丁寧に洗ってくれる。

そんな人がいたら、申し訳ないような、ありがたいような気持ちになるだろう。

 

ましてやそれが、イエスさまだったとしたら。

 

弟子たちは、それを経験した。

エスさまが上着を脱いで、ひざまずいて、せっせと足を洗ってくださったのだ。

 

福音書の著者は、それがどういうときに行われたかを記している。

 

エスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、・・・(3)

 

万物がご自分の手に渡されたことを知られたそのあとに、立ち上がって、弟子たちの足を洗い始められたのだ。

 

ふつうは、逆ではないか。

 

万物の主なのだから、万物の崇拝を受けるべき最高位の存在だ。

ところが、主は身を屈め、しもべの姿をとられた。

 

しかもそれは、愛の現れであった。

 

世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。(1)

 

愛してやまない弟子たち。

彼らにその愛を残るところなく示すその行為が、彼らの足を洗うことだった。

なんとも驚くべきことではないか。

 

 

しかし、考えてみれば、主はわたしたちが生まれる前から、わたしたちを愛し、世話をし、絶えず手をかけてくださっている。

 

それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。・・・私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書き記されました。私のために作られた日が、しかも、その一日もないうちに。(詩篇139:13,15-16)

 

わたしたちを愛し、わたしたちの足を洗ってくださるイエスさまの姿は、愛なる神の本来の姿といえるのかもしれない。

これが、わたしたちの神であられる。

なんと嬉しいことだろう。

 

それを知ったなら、人の前にふんぞり返って生きることなど、恥ずかしくてとうていできない。

むしろ、しもべとして神と人とに仕えることこそが、喜びとなる。

 

 

「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」(14)

 

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(34)

 

 

 

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