みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

ラザロを見るため

大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。(ヨハネ12:9)

 

「おい、聞いたか、イエスという人が、今度は死人をよみがえらせたらしいぞ」

「本当か。さすがにそんな話は、これまでに聞いたことがないな」

「イエスも、生き返った男も、いまベタニヤにいるらしい」

「よし、見に行こうじゃないか。」

 

こうして、たくさんの人々が、「ラザロを見るため」にやって来た。

それほどにラザロの復活は、ユダヤ地方に大きな衝撃をもたらした。

 

ラザロを見た結果、

 

彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになった・・・(11)

 

ラザロは、マルタとマリヤという姉たちとは違って、福音書の中でひとこともしゃべっていない。

しかし、おそらく福音書中、彼ほど多くの人をイエスを信じるように導いた人はほかにいない。

その勢いは、パリサイ人たちが強い危機感を抱いたほどだった。

 

そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」(19)

 

主よ。

ラザロは何も語らずとも、そのうちにはたらくよみがえりのいのち、あなたご自身のいのちによって、主のご栄光を表す存在となりました。

わたしのうちにもまた、同じ主のいのちが注がれていることを信じます。

どうぞ、言葉ではなく、存在そのものによって、あなたのご栄光をあらわす者としてください。

アーメン。

 

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:16)

 

神の国はことばにはなく、力にあるのです。(1コリント4:20)

 

 

 

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