ある人が夜明けまで彼と格闘した
ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。(創世記32:24)
ラバンと和解し、再び旅を続けるヤコブだが、脳裏には憎悪に満ちた兄エサウの顔しか思い浮かばない。
使いが言うには、四百人を引き連れて迎えに来るという。
ますます彼は恐れた。
「どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してください。兄が来て、私を、また子どもたちとともにその母親たちまでも打ちはしないかと、私は恐れています。」(11)
襲われても被害が半分ですむように宿営を二つに分け、家畜などの大量の贈り物を何班にも分けて先行させた。
怒りに燃えるエサウの顔が、一班目で「おや?」となり、二班目で「ほほう」となり、三班目で「まあ許してやろう」となればありがたいと、そんなことばかり考えていた。
その夜、彼が渡し場で一人残っているときに、突如「ある人」が襲いかかってきた。
「夜明けまで格闘した」というのだから、恐るべき戦いだ。
ヤコブは必死になって戦った。
そのうち、相手がただ者ではなく、神の聖者であることに気づいていく。
その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(26)
祝福を求めていることからも、それがわかる。
その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」(28)
ここで重要な名前「イスラエル」が出てくる。
そしてこの方は、「神」であり、「人」であることを明らかにした。
ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。(29)
「なぜ尋ねるのか。あなたは前から知っているはずだ」ということだろう。
わたしはこの箇所を読んで、今春放映されたテレビドラマ『ドラゴン桜2』を思い出した。
東大に入るにはどうすればいいのか、これは大事か、あれは効果的かと質問してくる生徒を、桜木先生はドンと海に突き落とした。
そして、自らも海に飛び込み、空を見上げながら、「グダグダ考えてねえで、海に飛び込んでみろ」と言うのだ。
わたしたちは、日々さまざまな事を、ああでもない、こうでもないと考えあぐねる。
しかし、そのような小賢しさを主は良しとされない。
そんな余裕もなくなるほど取っ組み合いを仕掛けられ、わたしたちを打ち砕かれる。
主よ。
わたしの内にある、人間的な小賢しさを打ち砕いてください。
まっすぐに、ただ主を信頼する者と変えてください。
アーメン。
彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に昇ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。(31)