みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

世の欲は過ぎ去ります

世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。(1ヨハネ2:17)

 

この言葉の前に、ヨハネはこう書いている。

 

あなたがたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。(15-16)

 

罪は、常に「欲」から出てくる。

悪魔は、人間を支配するには「欲」というエサがもっとも効果的だと知っているのだ。

 

そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(創世記3:6)

 

肉の欲、目の欲は、まだわかりやすい。

「暮らし向きの自慢」は、やっかいだ。

「賢く」見えてしまうからだ。

それはなにか価値があるかのように、すばらしいものであるかのように思える。

 

すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」(マタイ19:16)

 

彼は落ち度なく戒めを守り、真面目に生きてきた。

しかし、彼の根底に「欲」があることを、主はご存知だった。

 

エスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」(同21)

 

「欲」にはきりがない。

現代資本主義という怪物は、まさにその代物だ。

テレビをつければ、スマホを開けば、たちどころに「欲」への刺激が流れ込んでくる。

 

蛭には二人の娘がいて、「くれ、くれ」と言う。飽くことを知らないものが三つある。いや、四つあって、「もう十分だ」と言わない。(箴言30:15)

 

パウロは、次のように書いた。

 

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。(1テモテ6:6-9)

 

へブル書の著者は、こう言っている。

 

金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。(へブル13:5)

 

「神のみこころを行う」には、それが「欲」ではなく「御父の愛」に根差したものであるかどうかを見分ける必要がある。

主に喜ばれる道を歩むことができるよう、祈ろう。

 

この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(ローマ12:2)

 

 

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