悪魔の罠
また、教会の外の人々にも評判の良い人でなければなりません。嘲られて、悪魔の罠に陥らないようにするためです。(1テモテ3:7)
3章では、「牧会書簡」らしく、教会の責任を担う人たちについて、そのあるべき資質が説かれている。
ここに出てくる条件を完璧に満たす人を探したら、該当者がいなくなるのではないかと思うほど、理想的な人物像だ。
とはいえ、重んずべき基準であることは言うまでもない。
7節は、そのひとつだ。
聖書はあきらかに、「評判」を重視している。
それも、「外の人々」からの評判だ。
しかも、その「評判」はたいてい正しい。
耳の痛いところではあるが、それが事実だろう。
なぜ、「評判の良い」ことが大切なのか?
ここが、きょうのポイントだ。
嘲られて、悪魔の罠に陥らないようにするためです。
つまり、評判が悪いと、「悪魔の罠」に陥りやすいということだ。
「悪魔の罠」とは、何だろう?
ひとから嘲られたとき、わたしたちはどうなるだろうか?
たとえば、“怒り”が湧き起こるだろう。
あるいは、“自己嫌悪”や“自己憐憫”に陥ったりもする。
ひどい場合には、“自殺願望”まで抱いてしまうかもしれない。
くり返すが、外の人からの評判は、残念ながらたいてい正しい。
その正しさを足場にして、悪魔がわたしたちを執拗に攻撃するのだ。
エペソ書のみことばを、見てみよう。
怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ4:26-27)
医学的には、ひとの言葉で傷つくと、脳がダメージを受け、それが後々まで影響し続ける。
しかし、霊的な世界においては、悪魔がそこに働いている。
わたしたちを“怒り”の支配下に置こうとするのだ。
これが、「悪魔の罠」だ。
このみことばの「機会」という言葉は、原語では「場所」だそうだ。
わたしたちが怒り続けるとき、悪魔はそこに「場所」を確保し、わたしたちの心を汚していく。
ひとの言葉に対するわたしたちの応答しだいで、悪魔に場所を与えてしまうことになるとは、実に恐ろしい。
と同時に、そこに「罠」があると見抜けたなら、それを回避することもできる。
外の人の言葉が正しいなら、それを素直に認めて、改めていくようにしよう。
良い評判を得られるように、努めよう。
それは、主の前にへりくだる機会となる。
悪い感情を抱き続けて悪魔を喜ばせないように、気をつけようではないか。
ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ4:7)