みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

神に喜んでいただこうとして

私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。(1テサロニケ2:3-4)

 

自分が周りに喜ばれていると思えるとき、人は周りの人を愛することができる。

反対に、周りに喜ばれていないと思うと、周りを愛するよりも非難しやすくなる。

自分をこころよく思っていない人を愛することは、なかなかできないものだ。

 

パウロは、テサロニケの教会に、次のように書いている。

 

また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。(1テサロニケ4:11-12)

 

周りから後ろ指をさされない歩みをすることは、つまずきをもたらさないためだけでなく、その人たちを愛するためにも大切なのだと思う。

 

こう考えると、神を愛するためには神に喜ばれる歩みをする、ということになる。

「喜ばれているはずだ」というような自己本位の思い込みは別として、真に神の御前にへりくだり、神に喜ばれる歩みを重ねるとき、神をより愛することができるのではないだろうか。

 

パウロは、「私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして」と言った。

神に心を調べられる、そう聞くと恐ろしい気もするが、これは大きな恵みだ。

なぜなら、それなしに、ほんとうにへりくだることはないからだ。

 

あなたがたが知っているとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、貪りの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。また私たちは、あなたがたからも、ほかの人たちからも、人からの栄誉は求めませんでした。(5-6)

 

人にとり入ろうとしてへつらったり、自分の肉を喜ばせることを貪ろうとしたり、人からの称賛を求めたりしていないかどうか。

すべてを見通される神が、お調べになる。

 

また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことについては、あなたがたが証人であり、神もまた証人です。(10)

 

人の前に、そして神の前に、正しく歩みたい。

 

また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。(コロサイ1:10)

 

 

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すべての信者の模範

あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。その結果、あなたがたは、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範になったのです。(1テサロニケ1:6-7)

 

今日から、『テサロニケ人への第一の手紙』に入る。

わたしは、「テサロニケ」という響きが好きだ。

昔々の王様が、王妃の名を町につけたという。

すてきな話だ。

どんな夫婦だったのだろう。

その後、聖書にも入り、後世まで伝わる名となった。

 

さて、パウロは、テサロニケの信者たちを「すべての信者の模範になった」と称賛している。

彼らに対する大きな信頼が感じられる。

 

私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。(2)

 

彼らは、「主に倣う者」となった。

そういう人は、やはり「信者の模範」と言えるだろう。

 

主のことばがあなたがたのところから出て、マケドニアとアカイアに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰が、あらゆる場所に伝わっています。そのため、私たちは何も言う必要がありません。(8)

 

信仰が“伝わる”ことと、信仰を“伝える”ことは、似て非なるものだ。

テサロニケ教会の信仰は、伝えようとしなくても伝わった。

伝道も、かくありたい。

 

彼らの信仰の何が伝わったのか?

 

人々自身が私たちのことを知らせています。私たちがどのようにあなたがたに受け入れてもらったか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。(9-10)

 

第一は、彼らがどのように偶像から神に立ち返ったか、だ。

偶像を神であるかのように拝み、頼っていた人たちが、それが無意味であると知った。

そして、唯一の「生けるまことの神」こそが信頼すべきお方であると、神に仕えるようになった。

これこそ、すばらしい奇跡だ。

 

第二は、その結果、御子が再び天から来られるのを待ち望むようになったことだ。

この手紙は、すべての章で主の「再臨」に言及している。

再臨は、とうてい理解できたり、納得できるようなものではないかもしれない。

しかし、だからと言って、それについて考えなかったり、学ぼうとしないのは間違いだろう。

テサロニケの兄弟姉妹たちのように、生き生きと再び来られる主を待ち望む者でありたい。

 

これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。(黙示録22:20)

 

 

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みことばのために門を開いて

同時に、私たちのためにも祈ってください。神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。この奥義のために、私は牢につながれています。(コロサイ4:3)

 

 4章には、「祈りなさい」「祈ってください」「祈りに励んでいます」と、祈りに関する言葉が多く出てくる。

その中でパウロは二度、自分が獄中にあることにふれた。

上の箇所と、もうひとつは一番最後だ。

 

パウロが自分の手であいさつを記します。私が牢につながれていることを覚えていてください。どうか、恵みがあなたがたとともにありますように。(18)

 

ここでパウロは、「私が牢から出られるように、祈ってください」とは言っていない。

それよりも、みことばのために門が開かれ、キリストの奥義をはっきり語れるように祈ってくださいとくり返している。

 

また、私がこの奥義を、語るべき語り方で明らかに示すことができるように、祈ってください。(4)

 

パウロは、自らが飛び回ることよりも、みことばが広がっていくことを望み、そのために祈っていたのだ。

みことばの力に心から信頼していたと、言えよう。

 

この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて本当に理解したとき以来、世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長しています。(コロサイ1:6)

 

大事なのは、伝道者が飛び回ることではなく、みことばが広まることだ。

みことばだけが、人を新しく生まれさせることができる。

 

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです。(1ペテロ1:23-25)

 

みことばは、永遠に立つ。

みことばだけが、真に信頼するに値する。

みことばの力に信頼し、機会を活かして、世の光として歩みたい。

 

外部の人たちに対しては、機会を十分に活かし、知恵をもって行動しなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。(5-6)

 

 

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上にあるものを求めなさい

こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。(コロサイ3:1-2)

 

人が罪の中に死んでいるとき、その思いは地上のことだけだ。

 

その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。(ピリピ3:19)

 

キリストを信じ、そのいのちによってよみがえらされると、天に対して目が開かれる。

 

しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。(ピリピ3:20)

 

霊的成長とは、地に支配されていた心が、徐々に天に満たされていくことだ。

そして、天によって満たされた心は、おのずから地のものから解放される。

 

ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。(5)

 

法主義の罠は、天に満たされることなく、地に属する肉の力で地のものを克服しようとするところにある。

それは泥水をきよめようとして泥を掻き上げるようなもので、徒労に終わる。

 

これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。(コロサイ2:23)

 

エスさまは、「天」という言葉をよく口にされた。

「天の御国」や「天の父」についても、多くのことを教えられた。

エスさまはまさしく、天から遣わされた者として地上を歩まれたのであり、その心はつねに天によって満ちておられた。

このイエスさまの歩みが、御霊をとおして、わたしたちにも実現することを神は願っておられると言えるのではないか。

 

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。(15)

 

ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。(17)

 

もちろん、自分の努力や決心によってできることではない。

だからこそ、上にあるものを求め、イエスさまのいのちに満たされよう。

 

あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。(3)

 

「御国が来ますように。 みこころが天で行われるように、 地でも行われますように。」(マタイ6:10)

 

 

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本体はキリストにあります

こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。(コロサイ2:16-17)

 

鳥のように大空を飛び回りたい・・・。

だれもが、そう願う。

鳥の"道"は、われわれ人間のそれとは、まったく異なる。

広く、自由で、縦横無尽だ。

 

仮に、だ。

鳥が飛ぶことをやめ、地上を歩き回るとしたらどうだろう。

そこの角を右に曲がって、おっとこっちは行き止まりだ、おお信号が変わる、走るのはしんどいななどとやっていたら、まことにお疲れさんだ。

ほんとうは、飛べるのだから。

 

さまざまな戒め、律法、文字と取っ組み合うようなあり方は、地上を歩く鳥のようなものではないだろうか。

聖書は、それらは「影」だという。

かつては、「影」しか知らなかった。

しかしいまは、その「影」の「本体」であるキリストが来られた。

もはや「影」を相手にする必要はなく、「本体」であるイエス・キリストによって、新しく歩むことができる。

鷲のように翼をかって上ることができる。

 

このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。(6)

 

キリストにある歩みは、空を舞うように、自由で、伸びやかだ。

 

冒頭の聖句とよく似たみことばが、ローマ書にある。

 

「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。(ローマ13:9-10)

 

さまざまな律法の要求は、言ってみれば、「愛」の影だ。

本体は、「愛」にある。

そして、言うまでもなく、「愛」とは「イエス・キリスト」だ。

 

キリストは、わたしたちに新しいいのちを与え、地上の文字から解き放ってくださった。

キリストの愛によって、自由に大空を舞おう。

 

もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。(20-21)

 

 

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万物は御子によって造られ

万物は御子によって造られ、御子のために造られました。 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。(コロサイ1:16-17)

 

イエス・キリストは、偉大な宗教家などではない。

イエス・キリストは、キリスト教の教祖などではない。

イエス・キリストは、崇高な道徳家や歴史的偉人などではない。

 

イエス・キリストは、万物の創造主だ。

万物の存在の原因であり、目的でもあるお方、それがイエス・キリストだ。

 

こう言うと、おそらく大部分の日本人は、一笑に付すか、驚きあきれるだろう。

しかし、聖書ははっきりとそう告げている。

人間が認めようと認めまいと、信じようと信じまいとに関わらず。

 

御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。(15-16)

 

全世界の中心はイエス・キリスト、ということだ。

 

「私はあなたを親だと認めないし、信じない。私は偶然に誕生したのだ。もし親だと言うなら、証明してくれ。そうすれば信じるから」

愛するわが子から、このように言われたらどんな気持ちになるだろうか。

親にとって、これ以上の悲しみはない。

 

しかし、わたしたちはそんな態度を創造主に対してさんざん取ってきた。

恐るべき大罪と言わざるを得ない。

 

あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。(21-22)

 

二千年前、創造主である御子自らが人間の姿をとり地上に来られた。

教えを広めるためではない。

十字架にかかって、全人類の、あなたの、わたしの、受けるべき処刑を代わりに受けるためだ。

このことを信じ、イエス・キリストを受け入れてはじめて、人は本来の道に立ち返り、自分という存在の意味を知ることができる。

 

この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(14)

 

 

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あらゆる境遇に対処する秘訣

私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。(ピリピ4:12)

 

昨年からのコロナ禍で、生活が困窮する人が倍増していると思われる。

筆者も、例外ではない。

今年はいったいどんな年になるのか想像もつかない・・・、そんな不安な声があちこちから聞こえる。

だからだろう、きょうのパウロの言葉がことのほか沁みる。

 

私は、・・・ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。(12)

 

同じように告白できたら、どんなに素晴らしいだろう。

続く13節でパウロは、その「秘訣」を打ち明ける。

 

私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(13)

 

キリストと一つになること、ここに彼のいう「秘訣」がある。

3章で、パウロはこう言っていた。

 

私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ3:10-11)

 

わたしもまた、このことを切なる祈りにしたいと思う。

 

パウロは「貧しくあることも知っており」と言ったが、考えてみれば、現代に生きるわたしたちは当時のパウロよりもはるかに"物持ち"ではないだろうか。

 

パウロが、靴を日ごとに履き替えていたとは考えられない。

車検が来るから、車を買い替えようということはなかった。

きょうのデザートで悩むこともなかったし、エアコンの効きが悪いとイライラすることもなかった。

わたしたちは、クリスチャンであればたいてい自分の聖書を持っているだろうが、パウロや初代教会の人たちにとっては、まともな書物も珍しく、まして個人の書棚などは無かった。

彼らから見れば、わたしたちはなんと贅沢なことか。

 

それでもパウロは、こう証しした。

 

私はすべての物を受けて、満ちあふれています。(18)

 

また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(19)

 

神は、コロナ禍をとおして、わたしたちに「必要」を見直すよう促しておられるのかもしれない。

 

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。(1テモテ6:6-8)

 

 

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